ログイン「誰のおかげで、その名前を守ってこられたと思っている」
征士郎の指が、美琴の腕へ食い込んだ。
濡れた袖の下で皮膚が捻れ、鈍い痛みが走る。これまで一度も人前で声を荒らげず、乱れた姿を見せなかった男の手とは思えないほど、その力は露骨だった。
美琴は腕を引いた。
「離してください」
「資料を渡せ」
「嫌です」
「それを外へ持ち出せば、君自身も困ることになる」
「もう十分に困っています」
雨が二人の間を斜めに横切った。荒れた海から吹き上がる風が、美琴の濡れた髪を頬へ叩きつける。抱えた紙袋の口から、古い報告書の端が覗いていた。
征士郎の視線がそこへ落ちた。
次の瞬間、彼のもう一方の手が紙袋へ伸びる。
美琴は身体を捻った。
紙が引き裂かれる乾いた音がした。身辺調査書が半分ほど袋から抜け、雨へ晒される。二十二年前の文字が水を吸い、黒い線を滲ませた。
「返しなさい」
「これは私のものです」
「会社の機密だ」
「私の人生を調べ、利用するために作られたものです」
「美琴!」
征士郎が強く引いた。
美琴は右腕で資料を抱き、左手で彼の胸を押し返した。背広の布地は雨を吸い、冷たく重かった。
華帆が透明な傘の下で二人を見ている。
止めようとはしない。
腹部を庇うように片手を添え、濡れた睫毛の奥から、美琴が資料を奪われるのを待っていた。
征士郎の指が紙袋の取っ手へかかる。
美琴は力任せに引き抜いた。紙の取っ手がちぎれ、反動で身体が後ろへ傾く。
足元の水溜まりへ裸足が滑った。
転びかけた美琴は、咄嗟に駐車場の車止めへ手をついた。掌に粗い石の感触が食い込み、皮膚が擦れた。
「お姉ちゃん、もうやめて」
華帆が言った。
声だけは、泣きそうに震えている。
「そんなものを持って、どこへ行くつもりなの。誰も信じてくれなかったでしょう?」
美琴は荒い息を整えながら立ち上がった。
「信じてもらえるまで話します」
「警察にも相手にされなかったのに?」
「病院には記録が残っています。銀行にも、貸金庫会社にも、あなたたちが使った委任状がある。調べれば分かります」
華帆の顔から、かすかな余裕が消えた。
征士郎はその変化を見逃さなかった。
「美琴。最後に言う。資料を渡して、車へ乗れ」
「戻りません」
「君には一人で暮らす金も、連絡手段もない。身分証も印鑑もこちらにある。どこへ逃げても、数日で戻ることになる」
「それでも、あなたの家には帰りません」
「私の家ではない。君の家でもある」
「私の家なら、私のものを勝手に奪わないでください」
征士郎の顎がわずかに上がった。
「口答えを覚えたな」
「今まで、言わなかっただけです」
美琴は濡れた資料を胸へ押しつけた。
「分かっていても、言えばすべて壊れると思っていました。私が黙れば、父の会社も、従業員も、この家も守れると信じていた。でも、何一つ守られていなかった」
「感傷で会社は動かない」
「では、数字で話します。三年前の検体利用記録、偽造された面談記録、私名義の口座から関連会社へ移された資金。どれも説明できますか」
「必要な処理だった」
「本人の同意がなくても?」
「夫婦だ」
「夫婦なら、妻の身体まで夫の財産になるのですか」
征士郎は答えなかった。
代わりに、一歩踏み込んだ。
美琴も一歩下がる。
駐車場の奥には、海を見下ろす低い柵が続いている。風雨に晒され、塗装の剥げた金属が黒く濡れていた。その向こうでは波が岩壁へ砕け、白い飛沫を高く上げている。
美琴は逃げ道を探した。
駐車場の出入口は、征士郎の車と華帆の車に塞がれている。運転手は黒い車のそばへ立ったまま、こちらを見ない。主家の争いへ関わらぬよう、視線を伏せている。
海側しか開いていなかった。
美琴は踵を返した。
「待て!」
征士郎の手が背へ伸びる。
指先が髪を掠めたが、美琴は駆けた。片足は靴を失い、もう片方の靴も雨水を吸って重い。足裏の傷へ小石が刺さるたび、鋭い痛みが膝まで響いた。
それでも止まらなかった。
紙袋を胸へ抱き、柵に沿って走る。
華帆の声が追いかけてくる。
「お義兄さん、止めて!」
征士郎の足音が近づく。
美琴は駐車場の端まで追い詰められた。そこから先は崖へ張り出すように狭くなり、柵と斜面の間に人一人が通れるほどの場所しかない。
風がまともに身体へ当たった。
濡れたワンピースが脚へ絡みつく。
柵の向こうを見れば、暗い岩肌と泡立つ海が遥か下にあった。落ちれば助からない高さだった。
美琴は立ち止まり、背を柵へ預けた。
征士郎が数歩先で足を止める。
「資料を渡せ」
「近づかないで」
「逃げ場はない」
「それ以上来たら、ここから投げます」
美琴は資料を柵の外へ差し出した。
雨に濡れた紙が風に煽られ、ばたばたと鳴った。
征士郎の顔が強張る。
「やめろ」
「私を帰らせるなら、これは海へ落とします」
「君には、あれが何を意味するか分かっていない」
「私の人生を奪った記録です」
「会社が潰れる」
「不正を隠さなければ存続できない会社なら、私が守る理由はありません」
征士郎の目に、明確な憎悪が浮かんだ。
二十二年間、美琴が見たことのない目だった。
妻を見る目ではない。
自分の所有物が初めて命令へ逆らい、価値を損なおうとしていることへの怒りだった。
その時、駐車場の入口側が白く照らされた。
曲がりくねった坂道の下から、別の車の前照灯が近づいてくる。雨の幕を切り裂きながら、二つの光がゆっくりと上がっていた。
華帆が振り返った。
「誰か来る」
声から血の気が引いていた。
征士郎も一瞬、坂道へ目を向ける。
「お義兄さん、見られたら困る」
「黙っていろ」
「でも、あの人たちに見つかったら、お姉ちゃんが全部話すよ」
華帆は傘を捨て、征士郎へ駆け寄った。
雨に濡れた栗色の髪が頬へ張りつく。先ほどまで姉を責めていた顔から余裕が消え、目だけが異様に大きくなっていた。
「早くして」
「何を言っている」
「連れて帰れないなら、誰かに見られる前に終わらせて」
美琴は華帆を見た。
妹の言葉が、風の音に紛れそうなほど小さかった。
それでも、確かに聞こえた。
「華帆」
名を呼ぶと、華帆の肩が跳ねた。
だが謝らない。
視線を美琴から逸らし、自分の腹部を両手で守っている。
「お姉ちゃんが悪いんだよ」
雨の中、華帆は唇を震わせた。
「言うことを聞いてくれないから。私たちを壊そうとするから」
「壊したのは、あなたたちです」
「違う!」
「私を殺せば、元に戻るとでも思っているの?」
華帆は答えなかった。
坂道の前照灯が近づいてくる。
征士郎が決断したように息を吐いた。
ゆっくりと美琴へ近づく。
「資料を渡しなさい」
「来ないで」
「美琴。これ以上、私を困らせるな」
「あなたが困るかどうかで、私は死ねません」
「死ぬ必要はない。大人しくしていればいい」
「あなたの言う大人しくとは、薬を飲み、署名をし、身体を切られ、財産を渡すことです」
「家族のためだ」
「あなたたちのためでしょう」
征士郎が腕を伸ばした。
美琴は資料を柵の外へ振り出す。
その瞬間、征士郎は紙ではなく、美琴の左手首を掴んだ。
強く引かれ、身体が前へ傾く。
資料が数枚、紙袋から飛び出した。風に巻き上げられ、白い鳥のように崖の上を舞う。二十二年前の報告書の一頁が柵を越え、暗い海へ吸い込まれた。
「やめて!」
美琴は手首を振った。
征士郎は離さない。
指が骨へ食い込む。
その手が、美琴の左手へ滑った。
薬指に触れる。
「何をするのですか」
征士郎は答えず、結婚指輪を掴んだ。
二十二年間、一度も外したことのない指輪だった。
出産できなかったと知った夜も。
父の会社が榊原医療開発へ吸収された日も。
冬真の死亡記事を見つけた時も。
美琴は指輪だけは外さなかった。
夫婦であることが、自分の選択を無意味にしない最後の証だと思っていた。
征士郎は指輪を強く引いた。
雨で濡れた指から、金属が皮膚を擦りながら抜けていく。
「やめてください」
美琴は右手で彼の手を掴んだ。
「返して」
指輪が外れた。
征士郎は掌の中へ握り込んだ。
「事故なら、指輪が残っていた方が身元の確認が早い」
美琴は息を止めた。
「事故……?」
「君は精神的に不安定だった。会社の資料を持ち出し、父親の墓へ向かい、その後、雨の中を一人でさまよった」
征士郎の声は不気味なほど落ち着いていた。
「海へ身を投げても、不自然ではない」
華帆が青ざめた唇を舐めた。
「遺体が見つからなかったら?」
「失踪宣告を待つ必要はない。状況次第では死亡認定を進められる」
「口座や株は?」
「妻の死亡後、夫である私が必要な手続きをする」
美琴の耳に、波の音が遠く聞こえた。
この男は、すでに美琴が死んだ後の財産処理を考えている。
誕生日の夜に渡された委任状も。
前日に解約された口座も。
持ち去られた実印も。
すべて、今この瞬間へ続いていた。
「最初から、署名しなければ殺すつもりだったのですか」
「君が従えば、必要はなかった」
「私が自分で選ぼうとしたから?」
「君に選ばせれば、すべてを壊す」
征士郎は美琴の手首を引いた。
「資料を渡せ」
「嫌です」
「渡せ!」
初めて怒声が上がった。
美琴は驚きながらも、紙袋を抱え直した。征士郎が奪おうと掴みかかる。
二人の足元で水が跳ねた。
美琴は必死に抵抗した。
右手で征士郎の胸を押し、左腕で資料を守る。征士郎は手首を捻り、紙袋を引き剥がそうとする。
紙が裂ける。
風が資料を攫う。
華帆が「早く」と叫んだ。
坂道の車は、もう駐車場の入口近くまで来ている。前照灯が雨の向こうで揺れ、人影を照らしかけた。
征士郎の肩が美琴の胸へぶつかった。
美琴は後ろへよろめく。
腰が柵へ当たった。
古い金属が低く軋んだ。
「離して!」
征士郎の手を振り払おうとした拍子に、美琴の身体が柵の上へ乗り上げた。
足元が消える。
視界が大きく傾いた。
紙袋が手から離れ、白い紙が夜空へ散った。
美琴は咄嗟に柵へ腕を伸ばした。
左手が金属棒を掴む。
身体だけが柵の外側へ落ちた。
肩が引き裂かれるような痛みが走る。
「美琴!」
征士郎の声がした。
美琴は崖の外へぶら下がっていた。
足の下には何もない。
風が身体を揺らし、雨が目へ入り込む。指先は濡れた金属の上で滑り、力が少しずつ抜けていく。
「助けて……」
声が震えた。
上を見上げる。
征士郎が柵越しに美琴を見下ろしていた。
顔には驚きがあった。
ほんの一瞬、人間らしい迷いが浮かんだ。
二十二年間をともに過ごした妻が、目の前で落ちかけている。
彼は右手を伸ばしかけた。
「征士郎さん」
美琴は残った力で柵を握った。
「お願い……」
指が一本、滑った。
身体が大きく揺れる。
征士郎の手が美琴の手首へ近づく。
その背後で、華帆が息を呑んだ。
「お義兄さん……」
か細い声だった。
華帆は腹部を押さえ、その場へしゃがみ込む。
「痛い……お腹が」
征士郎が振り返る。
「華帆?」
「この子を守って」
華帆は顔を歪めた。
「お姉ちゃんを助けたら、全部知られる。この子も、お義兄さんも、何もかも終わる」
征士郎の視線が再び美琴へ戻った。
伸ばしかけていた手が止まる。
美琴はその顔を見た。
迷いが消えていく。
代わりに、冷たい計算が戻る。
「征士郎さん」
「すまない」
その言葉に、美琴の胸が凍った。
征士郎は膝をつき、美琴の左手へ触れた。
助けるためではなかった。
柵を掴む小指を、一本ずつ外すためだった。
「やめて」
小指が離れた。
「お願いです」
薬指が外される。
結婚指輪の跡だけが白く残った指だった。
「私は、二十二年間……」
中指が外れた。
肩の痛みが限界を越え、視界が白く明滅する。
「あなたの妻でした」
人差し指へ、征士郎の手がかかる。
美琴は必死に親指と人差し指だけで柵へ縋った。
征士郎は感情のない目で見下ろしていた。
「だからだ」
低い声が雨の中へ落ちた。
「死んでくれ、美琴」
人差し指が外された。
最後に残った親指が、濡れた金属の上を滑った。
身体が宙へ放り出される。
空も、海も、崖も、すべてが回転した。
風が耳元で唸り、息が喉から奪われる。
美琴は声も出せなかった。
黒い岩壁が迫る。
右肩が岩へ激しくぶつかった。
骨の奥まで響く衝撃とともに身体が弾かれ、さらに下へ落ちる。脇腹が突き出した岩へ当たり、息が完全に止まった。
視界の端で、白い紙が一枚、美琴とともに舞っていた。
婚姻による資産および議決権の長期管理。
滲んだ文字だけが、雨の中に浮かんで見えた。
次の瞬間、背中へ枝が食い込んだ。
崖から斜めに生えた樹木へ身体が引っかかる。
太い枝がワンピースを裂き、脇腹を支えた。反動で頭が幹へぶつかり、鈍い音が頭蓋の内側へ響く。
美琴は動けなかった。
口の中へ血の味が広がる。
雨が顔へ落ち続けている。
上方から、華帆の声が聞こえた気がした。
「落ちた……?」
征士郎の返事は聞こえない。
やがて車の扉が閉まる音。
エンジン音。
それらも風と波へ溶け、遠ざかっていく。
美琴は目を閉じかけた。
寒い。
痛みはあまりに強く、かえって遠くなっていた。指先も、脚も、自分のものではないようだった。
二十二年。
その年月が、雨の中で一つずつほどけていく。
父の病室。
征士郎の差し出した手。
冬真へ送れなかった手紙。
生まれなかった子ども。
華帆へ巻いてやった襟巻き。
誕生日の食卓。
緑色の箱。
最後に残ったのは、二十二年前の海辺だった。
まだ十七歳だった美琴へ、冬真が呼びかける。
遠くからでもすぐに分かる、少し低く、ぶっきらぼうなのに温かい声。
美琴。
幻聴だと思った。
死ぬ前に、最も会いたかった人の声を思い出しただけなのだと。
けれど、崖の上とは違う方向から、枝の折れる音がした。
誰かが斜面を下りてくる。
雨に濡れた岩へ靴をかけ、木の根を掴みながら、危険な崖を迷いなく進んでくる気配。
美琴は重い瞼をわずかに開いた。
暗い視界の中に、黒い影があった。
男の肩。
濡れた黒髪。
こちらへ伸びる手。
そして男は、二十二年前と同じ呼び方で、美琴の名を呼んだ。
「美琴」
五年前に死んだはずの、九条冬真の声だった。
久世が持ち込んだ書類は、一冊のファイルには収まらなかった。午前中だけで三つの厚いバインダーが机を占領し、その横には複写された契約書、印鑑証明書、登記事項証明書、保険関係の資料が年代別に積まれている。美琴は椅子へ腰を下ろす前に、それらの背表紙へ貼られた年号を目で追った。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から現在まで、二十二年分。昨日まで数字として眺めていた時間が、今度は自分の名前を印刷された紙となって目の前へ現れていた。「集められるだけ集めました」久世は最初のバインダーを開いた。関連会社への貸付契約、債務確認書、役員責任に関する確認書、個人保証、株式の議決権委任、生命保険。ページをめくるたび、契約者欄や保証人欄に〈榊原美琴〉の文字が現れ、その横には見慣れた朱色の印影が押されていた。「これ……私の実印です」「印影だけ見れば、そうです。添付された印鑑証明書も真正です」美琴は唇を閉じた。実印は長いあいだ榊原家の金庫に保管されていた。結婚当初、喜和子から「大事な物は家の者がまとめて管理した方が安全です」と言われ、通帳と一緒に預けたことを覚えている。必要な時は征士郎が出してくれたし、美琴自身も、それを不自然だとは思わなかった。久世が一枚を指で押さえた。「署名もかなり似ています」と言う。美琴は自分の名を見つめた。榊原の『榊』を書く時に木偏を少し細くする癖、美琴の『琴』の最後をわずかに右へ流す癖まで似ている。急いで書いた自分の署名だと言われれば、数年前までなら疑わなかったかもしれない。「これだけ揃っていたら、私が違うと言っても……」「否定するだけでは弱いでしょうね」久世は慰めるような言葉を挟まなかった。だからこそ、美琴は視線を逸らさずに済んだ。彼が求めているのは、美琴を傷つけない説明ではなく、相手が否定できない材料だと分かっている。「一枚ずつ見せてください」「全部ですか」「はい。契約日と、金額と、相手先も」久世は一瞬だけ眼鏡の奥で目を細め、それから最初のバインダーを美琴の方へ押した。昼前まで、部屋には紙をめくる音とキーボードを打つ音だけが続いた。美琴は契約日を自分の帳簿へ書き写し、同じ年の資金繰り表と照合していった。最初に違和感を覚えたのは、十七年前の保証契約だった。榊原医療開発の関連会社が金融機関から借り入れた三千万円について、美琴が連帯保証人になったことにな
白い検査報告書が、机の上でかすかに音を立てた。久世が指先で向きを変え、美琴の正面へ滑らせたからだった。紙面には、採取された錠剤の外観、含有成分、製造番号、照合結果が整然と並んでいる。美琴は最初の数行を読み進めたところで、そこに書かれた薬品名が自分へ処方された記憶のないものだと気づいた。「確認されたのは二種類です」向かいに座る医師は、九条家の系列病院には所属していなかった。久世が利害関係のない第三者として選んだ医師で、持ち込まれた錠剤の分析も外部機関を通して行われているという。彼は美琴の表情を窺うような間を置かず、ただ必要な情報だけを順番に説明した。「一つは、美琴さんが処方を受けていた通常の睡眠導入薬です。問題はもう一つです。複数の錠剤から、処方記録に存在しない強い鎮静作用を持つ成分が検出されています。同じ袋に入っていても、すべてが同一ではありません」美琴は報告書へ視線を落としたまま、右手の親指を左の指先へ押しつけた。自分が毎晩飲んでいたのは、征士郎が寝室へ持ってきた小さな白い錠剤だった。水差しからグラスへ水を注ぎ、枕元へ置き、「今日は疲れているだろう」と穏やかに言われる。それが結婚生活の中であまりにも当たり前になっていて、いつから始まったのか正確には思い出せない。「長期間、混在した状態で服用していた可能性がありますか」久世が尋ねると、医師は資料を一枚めくった。「残っている錠剤だけでは期間までは特定できません。ただ、美琴さんがお話しになった症状とは矛盾しません」と答え、今度は美琴へ顔を向けた。眠気が翌朝まで残ること、頭が重いこと、集中しづらくなること、記憶が曖昧になること。聞かれるたびに、美琴は一つずつ頷いた。「朝、数字が出てこないことがありました」声にした途端、会議室の冷たい空気が蘇った。三年前、資金繰りが厳しくなった月の役員会で、取引先への支払額を尋ねられた時だった。前夜まで何度も確認していた数字が、口を開いた瞬間に頭から消えた。征士郎は隣から資料を取り上げ、「無理をしなくていい」と笑い、美琴に代わって答えた。別の日には、取引銀行との面談中に、前月の短期借入額を取り違えたことがあった。帰宅後、美琴は自分の帳簿を確かめ、書かれた数字と記憶の食い違いに青ざめた。その時も征士郎は怒らなかった。肩へ手を置き、「年齢のせいだ」「最近は物忘れが増えたな」と
九条家の一室に運び込まれた段ボール箱は、朝から一つずつ机の脇へ積み上げられていた。榊原邸の台所の床下から取り戻した手書きの帳簿は、湿気を吸って端が波打ち、古いものほど紙が黄ばんでいる。美琴は表紙に記した年を確かめながら、それらを年代順に並べていった。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から、四十歳になった現在まで、抜けている月はほとんどなかった。二十二年という時間が、思い出ではなく、紙の厚みとなって目の前に積まれている。家計簿のように見える薄い大学ノートもあれば、会社の廃棄用紙を裏返して綴じたものもある。けれど中身は、食費や光熱費を記したものではない。銀行への返済日、手形の決済日、仕入先への支払い延期、役員が会社名義で落とした私的な会食費、不自然に膨らんだコンサルタント料、表の月次資料から消えた資金移動を、美琴が自分のために書き留め続けた記録だった。正式な肩書も社員証もなかった彼女は、会議室の外で聞いた数字と、征士郎が自宅へ持ち帰った資料と、取引先からかかってきた電話をつなぎ合わせ、会社が翌月を越えられるかを毎晩計算していた。「これを、全部お一人で?」久世朔臣は、銀縁眼鏡の奥で目を細めた。机の向かい側には彼が持ち込んだノートパソコンが開かれ、画面には美琴が入力した数字が年ごとに並んでいる。問いかけに驚きより確認の響きが強いところが、いかにも彼らしかった。美琴は古い帳面を一冊開き、二十年前の四月に引いた赤い線を指でなぞった。「最初は、会社が潰れたら困ると思っただけです。父の会社を救ってもらったのだから、今度は私が榊原家を支えなければいけないと……そう思っていました」口にすると、喉の奥へ乾いたものが引っかかった。救ってもらった、という言葉を二十二年間、何度使ってきただろう。征士郎に言われたからではない。喜和子に恩を説かれたからでもない。美琴自身がそう信じることで、朝から深夜まで働いても名刺一枚与えられず、経営判断へ口を出した時だけ「妻は家庭を見ていればいい」と笑われる日々に意味を与えていた。けれど、帳簿を一冊ずつ外へ出してみると、その意味だけがひどく脆かった。久世はページを数枚めくり、右端に並んだ小さな記号を見た。「△の横に二重線。これは何です」と尋ねられ、美琴は当時の記憶を探すまでもなく答えた。支払い延期を取引先が二度以上受け入れている印、翌月に現金が足りなければ取
榊原医療開発本社の一階ホールには、午前十時を過ぎる前から報道陣が集まり始めていた。 正面の壁には会社の紋章。中央には白い布を掛けた長机が置かれ、その前へ複数のカメラが並んでいる。照明の熱と機材の金属臭が、広い空間へ薄くこもっていた。 征士郎は開始予定時刻の五分前に現れた。 濃紺のスーツ。黒ではない。喪に服す夫ではなく、生還した妻を迎えたい男として見せるためだった。襟元は整い、頬にはわずかな疲労が残っている。無精髭はなく、ただ目の下だけを薄く落ちくぼませていた。 彼の隣には華帆がいた。 柔らかな灰色のワンピースに、薄い黒のカーディガン。顔色は白く、口元にはほとんど色がない。長い袖から覗く手首は細く、片手は胸元へ添えられている。 妊娠していることは伏せられていた。 記者たちが一斉に立ち上がり、光が何度も瞬いた。 征士郎は深く頭を下げた。「本日は、妻・美琴の件でお集まりいただき、ありがとうございます」 低く、静かな声だった。「まず、妻が生きて戻ってきたことを、夫として心から喜んでおります。事故現場では生存が絶望視され、家族葬まで行いました。あの時のことを思えば、今も妻がこの世にいるというだけで、言葉にできないほど救われています」 華帆が目元へ手巾を当てる。 記者の一人が、すぐに質問した。「奥様とは、その後お会いになりましたか」 征士郎は一瞬、言葉を飲み込むように伏し目になった。「いいえ」 会場がざわめく。「妻は現在、九条家の本邸にいると聞いております。しかし、家族である私たちには居場所の詳細も、治療状況も知らされていません。面会を求めても、弁護士を通せという回答しかありませんでした」「奥様ご自身が面会を拒否しているのでは?」「事故直後の妻が、どこまで自分の意思で判断できているのか。私はそこを心配しています」 征士郎は記者を正面から見た。「妻は崖から転落し、頭部にも重い傷を負いました。長年、不眠や強い不安にも苦しんでいた。そんな妻が目覚めて間もない時期に、家族から隔離され、五年間も生存を隠していた人物の保護下へ置かれているのです」 九条冬真という名を、征士郎はまだ口にしなかった。 先に、死亡を偽装した人物という形を置く。 記者たちの間で、紙をめくる音が増える。「九条家が奥様を監禁しているとお考えですか」「断定するつも
白い紙の上に、二つの「榊原美琴」が並んでいた。 一つは、美琴が役所の確認室で書いたもの。 もう一つは、印鑑登録の廃止と再登録を申請した書類に残されていたものだった。 文字の大きさも、線の細さもよく似ている。 けれど最後の一画だけが違う。 本物は右上へ細く抜け、偽物は下へ落ちていた。 美琴は鑑定用の机へ左手を置き、指定された文章をもう一度書いた。 右肩を固定しているため、筆記にはまだ慣れない左手を使っている。それでも、幼い頃から身体へ染み込んだ字の運び方までは変わらなかった。「普段は右手で書かれるのですね」 向かいに座る筆跡鑑定人が尋ねた。「はい」「事故以前の筆跡も必要です。契約書、銀行関係、手紙など、ご本人が書いたことを確認できる資料はありますか」 久世が革の鞄から複数の書類を取り出した。「銀行の過去の届出書、榊原医療開発の取引先へ送った礼状、寺の記帳簿、本人が保管していた資金繰り帳です」 古びた大学ノートが机へ置かれる。 帳簿の表紙には、長年触れ続けた指の跡と、薄い油染みが残っている。 鑑定人は拡大鏡を使い、一つずつ線の特徴を確認した。「偽造された申請書は、かなりよく模倣されています」「二十二年間、私の署名を見ていた人がいます」「ご主人ですか」「はい」 美琴は偽造された文字を見た。 征士郎は、会社の契約書へ署名する美琴の手元を何度も見ていた。 役員の妻として礼状を書く時も。 銀行へ提出する説明書へ名を記す時も。 父の命日に寺の記帳簿へ筆を置く時も。 書き方を知る時間は十分にあった。 それでも、美琴が宗一郎から教わった最後の払いだけは再現できなかった。「長く見ていれば、形は真似できます」 鑑定人が言った。「ただ、字の終わらせ方や、筆圧が変化する位置、線を離す直前の動きは、書き手自身の習慣が出やすい。こちらは別人が模した可能性が高いと思われます」「正式な鑑定書をお願いします」 久世が答える。「印鑑登録の復旧手続きと、偽造文書に関する申立てへ使用します」 鑑定を終えた後、美琴たちは役所の別室へ移った。 机の上には、印鑑登録廃止届と、新たな印鑑を登録するための申請書が並べられている。 新しい実印の印影は、均一で整っていた。 美琴が使っていた印鑑には、「琴」の左下へ小さな欠けがある。宗一郎が作らせ
九条家本邸の会議室には、窓がなかった。 黒い木の長机と、壁際に並ぶ書棚。天井へ埋め込まれた照明は白く、朝とも夜ともつかない光を落としている。 美琴は長机の末席に座っていた。 右肩の固定具はまだ外れていない。左脚にも硬い装具が巻かれ、椅子の脇には杖が立てかけてある。脇腹の傷は、長く座っているだけでも鈍く疼いた。 それでも、美琴は背筋を伸ばしていた。 机の中央には、九条家が美琴の保護へ使った費用の一覧が置かれている。 九条総合医療センターでの緊急手術。 集中治療室と個室の使用料。 二十四時間の警護。 崖上と周辺道路の調査。 久世の弁護士費用。 筆跡鑑定、医療記録の照会、役所への書類保全請求。 そこへ、独立した医療機関での精神鑑定費用まで加わっていた。 合計額を見て、美琴は一度だけ息を止めた。 普通に働いて返せる金額ではない。 正面には九条紫が座っている。 濃い墨色の着物に銀の帯。細い指で費用一覧の頁を押さえ、老いた目を美琴へ向けていた。 冬真は美琴の隣ではなく、長机の右側に座っている。腕を組み、会議が始まってから一度も資料へ視線を落としていなかった。 紫が口を開く。「あなたが本邸へ入ってから、九条家の人員と資金がどれほど動いたか、お分かりですか」「一覧を拝見しました」「数字を読める方なら、感想もあるでしょう」「私一人へ使うには、大きすぎる金額です」「その通りです」 紫は淡々と答えた。「あなたは夫に殺されかけ、崖下で冬真に拾われた被害者です。九条家が救助と治療を行ったこと自体を問題にするつもりはありません」 そこで言葉を切り、冬真を見た。「ですが、その後も病院、護衛、弁護士、調査員を継続して動かしている。冬真の私情によってです」「俺が決めた」 冬真がすぐに口を挟んだ。「美琴へ請求する必要はない」「あなたには聞いていません」「俺の金をどう使おうが――」「冬真」 美琴が呼んだ。 彼の顔がこちらへ向く。「私に話させてください」「お前が払う話ではない」「それを決めるための会議です」「決まっている。俺が払う」 冬真の声には、議論を終わらせる力があった。 だが美琴は目を逸らさなかった。「それでは、私はまた何も知らないまま、誰かが支払った場所に座ることになります」「榊原と同じにするな」「同じには